まず大前提:酵素は「形」が崩れると働けない
PCRでDNAを増やすために働いている酵素が「DNAポリメラーゼ」です。
そして、このDNAポリメラーゼの正体はタンパク質です。
タンパク質はアミノ酸が一直線に並んでいるだけではなく、折りたたまれて特定の立体構造を作っています。
そして、その立体構造があるからこそ、
- dNTPを認識する
- DNAを認識する
- DNA鎖を伸長する
といった働きができます。
ところが保存中に立体構造が崩れたり、タンパク質同士が凝集したりすると、酵素分子そのものが存在していても、本来の働きができなくなることがあります。
この記事では、PCRでDNAを合成するDNAポリメラーゼを「PCR酵素」と呼びます。
ここが「U(酵素活性)」につながる
以前の記事で、酵素は 「何mg入っているか」ではなく、「何U(ユニット)あるか」 で扱われることを紹介しました。
その理由の一つが、酵素は保存状態によって活性が変化することがあるからです。
例えば、ある酵素液では、
- 1 µL中の酵素活性:5 U
だったとします。
しかし保存中に酵素の一部が立体構造を失い、十分に働けなくなると、
- タンパク質量はほとんど変わらなくても
- 実際に働ける酵素が減る
ため、測定される活性(U)は低下します。
つまり、
同じ量のタンパク質が入っていても、「働ける酵素」が減ればUは下がる
ということです。
だから酵素は、量だけではなく活性(U)で管理されているのです。
Uについてはコチラの記事で詳しく解説しています。
👉酵素の単位「U(ユニット)」とは?DNAポリメラーゼの5 U/µLの意味をわかりやすく解説
だから酵素は低温で保存する
酵素は保存中にも、
- 変性
- 凝集
- 化学的な変化
などによって、少しずつ活性を失う可能性があります。
そのため、これらの変化が起こりにくいよう、多くのPCR酵素は
−20℃保存
となっています。
しかし、ここで疑問が浮かびませんか?
「−20℃なのに、酵素液ってカチカチに凍っていないような……?」
実は、この理由にグリセロールが関係しています。
PCR酵素の保存液の組成や保存状態は製品によって異なります。ここでは、高濃度のグリセロールを含み、−20℃でも凍結しにくい製品を例に説明します。
そもそもグリセロールって何?
簡単に言うと、
グリセロール(glycerol)は、無色透明で少し粘り気のあるアルコールの一種です。
「アルコール」と聞くとエタノールを思い浮かべますが、グリセロールもOH(ヒドロキシ基)を持つアルコールの一種です。
グリセロール(HO−CH₂−CH(OH)−CH₂−OH)にはOH基が3つあるため、
「三価アルコール」と呼ばれます。
特徴は、
- 無色透明
- 水によく溶ける
- 粘り気がある
- 水を引き寄せる性質(吸湿性)がある
です。
だから酵素液が少しトロっとして見えることもあります。
また、グリセロールは水よりも密度が高く、純粋なグリセロールの密度は20℃付近で約1.26 g/mLです。水の約1.00 g/mLと比べると、同じ体積でも少し「重い」液体です。
さらに粘性も高いため、グリセロールを多く含む酵素液は、水のようにサラサラとはしていません。
この「密度が高い」「粘性が高い」「屈折率が水と異なる」という性質は、後で出てくる酵素液の「モヤッ、ユラッ」とした見え方にも関係しています。
その性質から、グリセロールは電気泳動のサンプルローディングバッファーなどにも使われています。
グリセロールは身近な物質
グリセロールは
- 化粧品
- ハンドクリーム
- 保湿剤
- 歯磨き粉
- 食品添加物(保湿・甘味)
などにも使われています。
つまり、危険な特殊薬品ではなく、とても身近な化学物質なんです。
ちなみに「グリセリン」という名前を聞いたことがある人も多いかもしれません。
グリセロールとグリセリンは基本的に同じ物質を指します。
化学や生化学の分野では「グリセロール」、化粧品や医薬品などでは「グリセリン」という呼び方をよく見かけます。
なぜグリセロールを入れると−20℃でも凍りにくい?
PCR酵素の保存液には、製品によって高濃度のグリセロールが含まれています。
グリセロールには、水溶液の凝固点を下げる働きがあります。
そのため、グリセロールを多く含む保存液では、−20℃でも完全には凍結せず、粘性のある流動的な状態を保つことがあります。
だから冷凍庫からPCR酵素を取り出しても、
冷たいけれど、そのままピペットで必要量を吸い取れる
という状態になっています。
これは実験ではとても便利です。
必要な分だけ取り、冷凍庫 → 使用 → すぐ戻すという扱いができます。
ただし、グリセロールが入っているからといって、「どんな低温でも凍らない」という意味ではありません。
また、実験室には−20℃や−80℃など、異なる温度の冷凍庫があります。「低温なら低温なほどよい」というわけではないため、試薬ごとに指定された保管温度を確認しましょう。
グリセロールには酵素を守る役割もある
グリセロールは、凍りにくくするだけではありません。
タンパク質の周囲の水分子の状態に影響し、立体構造の変化や凝集を抑えることで、酵素を安定化する目的でも広く利用されています。
つまりグリセロールは、
- 保存液を扱いやすくする
- 酵素の立体構造を守る
という、二つの大切な役割を担っているのです。
なぜ凍結融解を繰り返してはいけないの?
タンパク質溶液を、
- 凍らせる
- 溶かす
- また凍らせる
- また溶かす
という操作を何度も繰り返すと、酵素によっては活性低下や凝集が起こることがあります。
凍結すると水が氷になり、残った液相には塩類などの溶質が濃縮されます。
すると局所的な環境が変化し、タンパク質へ負担がかかる場合があるためです。
そのため、多くのタンパク質試薬では不要な凍結融解を繰り返さないよう取り扱います。
ただし、ここで一つ注意があります。
PCR酵素は高濃度グリセロールを含むことが多いため、−20℃でも完全には凍結しない製品が少なくありません。
つまり、毎回カチカチに凍らせて、毎回完全に解凍しているというわけではないのです。
グリセロールによって流動性が保たれることも、酵素を安定して使用できる理由の一つと言えるでしょう。
酵素液を入れると「揺らぎ」が見えるのはなぜ?
以前、
「酵素を加えたとき、液の揺らぎを見るように教わった」
という話をしました。
これにもグリセロールが関係している可能性があります。
グリセロールを多く含む保存液は、水よりも粘性が高く、屈折率も異なります。
そのため、少量の酵素液をPCR反応液へ加えると、
モヤッ
ユラッ
と、液の境界や揺らぎのようなものが見えることがあります。
ただし、これは製品や添加量、温度、照明などによって見え方が変わります。
そのため、「揺らぎが見えた=酵素が正確に添加できた」と確認できる方法ではありません。
私自身は、揺らぎだけで判断するのではなく、チップの中に酵素液がきちんと吸えているかを目で確認するようにしています。
👉Taq DNAポリメラーゼとDNAポリメラーゼの違いとは?PCRでTaqが使われる理由を解説
PCR酵素を扱うときの注意点
初めてPCRを教わったときも、「酵素はすごくデリケートなものだから、さっと使ってすぐ冷凍庫に戻してね、ボルテックスはしないでね」と言われました。
酵素によっては、ボルテックスなどの強い撹拌によって活性が低下する可能性があります。
ボルテックスは試薬を激しく攪拌するため、
- 気泡がたくさん入る
- 空気との界面が増える
- タンパク質にストレスがかかる
ことがあり、酵素によっては失活や凝集の原因になることがあります。
そのため、私が扱ってきたPCR酵素では、ボルテックスではなく、
- やさしく上下に転倒混和する
- 軽くタッピングする
- 指ではじくように混ぜる
などの方法で穏やかに混ぜていました。
※ただし、製品によってはボルテックス可能なものもあります。酵素の取り扱いは、使用する製品の説明書に従うのが基本です。
💡現場で教わったワンポイント
酵素液はグリセロールを多く含むことがあるため、水よりも少し粘性があります。
そのため、私は実験を教わった際に、
- ゆっくり吸うこと
- チップの中に酵素液が入っているか目で確認すること
を教わりました。
PCR酵素は1~2 µL程度しか使わないことも多いため、勢いよく吸うと液が思ったように入っていないことがあります。
また、試薬の残りがわずかになってくると、液が取りづらくなります。
私が使用している10 µLチップには細かい目盛りが付いているので、その目盛りを見ながら、酵素液がきちんと吸えているか確認しています。
粘性があるため、ピペットはゆっくり吸引し、必要に応じて少し待ってからチップを液面から離します。
慣れてくると自然にできるようになりますが、最初の頃は「本当に吸えているかな?」と毎回確認していました。
実際のPCR酵素の取り扱い
PCR酵素はタンパク質であるため、活性を保つために取り扱いにも注意が必要です。
製品によって異なりますが、PCR酵素を扱う際には、次のような方法がよく用いられます。
- 多くの製品は−20℃で保存する
- 使用中も氷上に置き、使用後はすぐに冷凍庫へ戻す
- 粘性があるため、ピペットでゆっくり吸う
- 製品や実験条件に応じて、PCR反応液を氷上または冷却ブロック上で調製する
- 混和方法は製品の説明書に従い、必要に応じて穏やかに混ぜる
といった方法がよく用いられます。
また、PCRでは酵素の活性を保つことだけでなく、コンタミネーションを防ぐことも重要です。
必要に応じてPCR専用のピペットや作業場所を分けるなど、施設ごとのルールに従って反応液を調製します。
まとめ
PCR酵素の正体であるDNAポリメラーゼはタンパク質です。そのため、活性を保ったまま保存・使用することが大切です。
PCR酵素の保存液に含まれるグリセロールには、
- 水溶液の凝固点を下げ、−20℃でも凍りにくくする
- タンパク質を安定化する
- 粘性が高く、酵素液の扱いや見え方にも影響する
といった特徴があります。
そのためPCR酵素は、製品ごとに指定された保存温度や混和方法を守り、粘性の高い酵素液はゆっくりピペッティングするなど、丁寧に扱うことが大切です。
