生命科学の実験では、Tris-HCl(トリス塩酸)Bufferという名前をよく見かけます。
私自身、以前Tris-HCl Bufferを調製したことがあります。
Trisを水に溶かし、pHメーターで測定しながらHClを少しずつ加えて、目的のpHに合わせていく。
操作としては知っていましたが、改めて考えると疑問が出てきます。
そもそも、なぜTrisにわざわざHClを加えるのでしょうか?
Trisは弱塩基です。
せっかくTris溶液を作ったのに、そこへ強酸であるHClを加える。
単にpHを下げるためなのでしょうか?
実は、HClを加えることには、Tris-HClがBufferとして働く仕組みそのものが関係しています。
この記事では、TrisにHClを加える理由と、Tris-HClがBufferとして働く仕組みを初心者向けに解説します。
そもそもTrisとは?
Trisは、H⁺(プロトン)を受け取ることのできる弱塩基です。
Trisのアミノ基(−NH₂)がH⁺を受け取ると、TrisH⁺(プロトン化Tris)になります。
Tris + H⁺ ⇄ TrisH⁺

この「H⁺を受け取ることができる」という性質が、Tris-HCl Bufferの仕組みを理解するうえで重要です。
Trisの構造や、なぜ生命科学のBufferとしてよく使われるのかについては、こちらの記事で詳しく解説しています。
👉TEバッファーとは?なぜDNAの保存に使うの?TrisとEDTAの役割をわかりやすく解説
なぜTrisを水に溶かすとアルカリ性になるの?
Trisは弱塩基なので、水からH⁺を受け取ることができます。
簡略化すると、
Tris + H₂O ⇄ TrisH⁺ + OH⁻
と表すことができます。
ここで大切なのは、Tris自身がOH⁻を放出しているわけではないということです。
Trisが水分子からH⁺を受け取ることでTrisH⁺となり、H⁺を渡した水側にOH⁻が生じます。
その結果、溶液中のOH⁻が増えて、Tris水溶液はアルカリ性になります。
しかし、Trisを水に溶かしただけでは、目的のpHに調整されたBufferにはなりません。
そこで登場するのが、HCl(塩酸)です。
なぜ弱塩基のTrisにHClを加えるの?
ここがTris-HClを理解するうえで、一番重要なところです。
Trisを水に溶かしただけではTrisH⁺が少ないので、HClを加えてTrisH⁺を増やします。
Tris溶液にHClを加えると、HClから供給されたH⁺をTrisが受け取ります。
Tris + H⁺ → TrisH⁺
つまりHClを加えることで、溶液中のTrisの一部をTrisH⁺へ変えているのです。
Trisを水に溶かした時点でもTrisとTrisH⁺は平衡状態で存在していますが、HClを加えると、供給されたH⁺をTrisが受け取るため、TrisH⁺の割合が増えていきます。
その結果、溶液中にはTris(弱塩基)とTrisH⁺(共役酸)のペアが、目的のpHに応じた割合で存在するようになります。
つまり、HClを加えてpHを調整する操作は、
TrisとTrisH⁺の割合を調整する操作
と見ることもできます。
そして、このTrisとTrisH⁺のペアが、pHの変化を抑えるBufferとして働くのです。

TrisとTrisH⁺があるとなぜBufferになるの?
では、なぜTrisとTrisH⁺が両方あると、pHが変化しにくくなるのでしょうか。
酸が加わった場合
溶液にH⁺が増えると、
Tris + H⁺ → TrisH⁺
となります。
TrisがH⁺を受け取るため、加えられたH⁺がそのまま溶液中に増えるのを抑えることができます。
塩基が加わった場合
反対にOH⁻が加わった場合には、TrisH⁺がH⁺を供給できます。
TrisH⁺ + OH⁻ → Tris + H₂O
つまり、
- 酸が来た
→ TrisがH⁺を受け取る - 塩基が来た
→ TrisH⁺がH⁺を渡す
という両方向の働きによって、pHの急激な変化を抑えることができます。
Trisだけではなく、TrisとTrisH⁺の両方が存在することが重要なのです。
これがTris-HCl Bufferの基本的な仕組みです。

HClは単に「pHを下げている」だけではない
この仕組みを知ると、以前行っていたBuffer調製の操作も、少し違って見えてきます。
実際にTris-HCl Bufferを調製するときには、
Trisを水に溶かす
↓
HClを少しずつ加える
↓
pHメーターで確認する
↓
目的のpHに調整する
という操作をします。
私自身、以前は「HClを加えて目的のpHに合わせる」という操作として覚えていました。
しかし分子レベルでは、HClを加えることでTrisの一部がTrisH⁺となり、TrisとTrisH⁺の割合が変化しています。
つまり、pHメーターを見ながらHClを加える操作は、単に「pHの数字を合わせる」だけではなく、
Bufferを構成する弱塩基と共役酸の割合を調整する操作
でもあったわけです。
なぜTris-HClはpH 8付近でよく使われるの?
ここでもう一つ疑問が出てきます。
なぜTris-HClはpH 8付近でよく登場するのでしょうか?
ここで重要になるのが、pKaです。
pKaは、簡単にいえば弱酸とその共役塩基(あるいは弱塩基とその共役酸)のバランスを考えるときの指標です。
Trisの場合、共役酸であるTrisH⁺のpKaは25℃でおよそ8.1です。
pHがpKaと等しいとき、Henderson-Hasselbalchの式から、
[Tris] = [TrisH⁺]
となります。
つまりpH 8.1付近では、
H⁺を受け取れるTrisとH⁺を渡せるTrisH⁺がほぼ同じ濃度で存在
します。
酸が加わってもTrisが対応でき、塩基が加わってもTrisH⁺が対応できるため、両方向の変化に対応しやすい状態になっているわけです。
Bufferは一般にpKaを中心とした一定のpH範囲で緩衝作用を発揮しやすく、TrisはおおよそpH 7〜9付近でよく利用されます。
これが、Trisが中性付近〜弱アルカリ性領域のBufferとしてよく使われる理由です。
ただし、Tris-HCl Bufferが必ずpH 8付近で使われるわけではありません。
実験では、Bufferの緩衝能だけでなく、酵素反応や抗原抗体反応など、その実験系に適したpHも重要です。
そのため、目的によってはpH 9付近などに調整したTris-HCl Bufferが使われることもあります。
私自身、以前ウェスタンブロッティングで使用する試薬として、pH 9台のTris-HCl Bufferを調製した記憶があります。
当時は指定されたpHに合わせていただけでしたが、今振り返ると、BufferのpKaだけでなく、その実験系に必要なpHを考えて条件が設定されていたのだと思います。
Trisにも弱点がある
生命科学の実験によく使われるTrisですが、注意点もあります。
Trisの注意点の一つが、pKaの温度依存性が比較的大きいことです。
Trisは温度が上がるとpKaが低下するため、Tris BufferのpHも温度によって変化します。
一般に、
- 温度が上がる → pHは低下する方向
- 温度が下がる → pHは上昇する方向
に変化します。
そのため、
室温でpH 8.0に調整したTris-HCl Bufferが、別の温度でもまったく同じpHとは限りません。
特に温度条件が重要な実験では、どの温度でpHを調整・使用するのかにも注意が必要です。
Bufferは「目的のpHにさえ合わせれば何でも同じ」というわけではなく、実験条件に応じて適切な緩衝剤を選ぶ必要があります。
HClのCl⁻はどこに行くの?
ここまでHClのH⁺に注目してきましたが、もう一方のCl⁻(塩化物イオン)はどうなるのでしょうか。
H⁺がTrisに受け取られてTrisH⁺になっても、Cl⁻はなくなるわけではありません。
Cl⁻は、正の電荷を持つTrisH⁺の対イオンとして溶液中に存在します。
つまり、プロトン化したTrisは、
TrisH⁺ Cl⁻
という組み合わせで存在し、これがTris hydrochloride(Tris-HCl)です。
なお、Tris-HClの酸塩基緩衝作用の中心となるのはTrisとTrisH⁺です。ただしCl⁻も溶液中に存在するイオンなので、実験系によってはその濃度を無視できない場合があります。
Tris-HCl Bufferには2つの作り方がある
Tris-HCl Bufferを作る方法には、TrisにHClを加えてpHを調整する方法と、Tris baseとTris-HClという2種類の試薬を組み合わせる方法があります。
Tris baseとは、この記事でこれまで「Tris」と呼んできたものと基本的に同じで、Tris-HClと区別するための呼び方です。
前者では、HClを加えることでTrisの一部をTrisH⁺に変え、目的のpHに調整します。
一方、後者では、Tris側をTris base、TrisH⁺側をTris-HClとして最初から用意し、両者を目的の割合で混ぜることができます。
ただし、計算した割合で混ぜれば必ず目的のpHになるとは限らないため、実際にはpHメーターで確認し、必要に応じて最終調整します。
私自身、以前この方法について、HClを少しずつ加えて調整する方法に比べて、「インスタント的にTris-HCl Bufferを作れる」と教わったことがあります。
「インスタントなのに結局pH測るんかい」と思った記憶がありますが、HClを何度も滴下して調整する手間を減らせるというメリットはありました。
当時は2つの作り方の違いをよく理解していませんでしたが、仕組みを知ると、後者は最初からTrisとTrisH⁺を組み合わせているということだったわけです。
どちらの方法でも、最終的には目的のpHに応じたTrisとTrisH⁺の割合にするという考え方は同じです。
まとめ
Trisは、H⁺を受け取ることのできる弱塩基です。
Tris溶液にHClを加えると、Trisの一部がH⁺を受け取ってTrisH⁺となり、TrisとTrisH⁺が共存するBufferになります。
この2つが、
酸が加わる
→ TrisがH⁺を受け取る
塩基が加わる
→ TrisH⁺がH⁺を渡す
ことで、pHの急激な変化を抑えています。
つまり、Tris-HCl Bufferを調製するときにHClを加える操作は、単に「pHの数字を合わせる」だけではなく、
TrisとTrisH⁺の割合を調整し、Bufferとして働く状態を作る操作
でもあります。
普段何気なく使っているTris-HClも、その仕組みを知ると、「なぜHClを加えるのか」「なぜBufferとして働くのか」が見えてきます。
